ランチタイムにラーメン屋です。
注文を間違えました。1年前までは飲食店で注文を間違えることはなかったのに、最近はたまに間違えます。
醤油ラーメンを頼むつもりで、コッテリを頼んでしまいました。
メニューが分かりにくいといえば分かりにくいのです。鷄コテなんとかとか、写真がメニューにないのでこうなるんですけどね。
餃子の方ですが、🥟珍しく醤油も酢もラー油も置いてないんですよ。でも肉汁が出て、しっかり味が付いていて美味しかったです。
店内には男子高校生らしき5人組が食べてました。そこで思ったのが最近の若い人は大人しいなあということです。
例外はあるにせよ、変に堅苦しさを感じる時がありますね。法やルールを守り過ぎみたいな。もちろん破れと勧めているわけではありませんが、型にハマってしまって行儀が良いですよね。
そんな時に私が高校生の頃などを思い出し、現在と比べてみることがあります。
私が通ったのは根性論で厳しい県立筑紫高等学校で体罰もあった学校でして、長期連休といえば夏休みや冬休みはなくて、盆休み正月休みしかありませんでしたが、生徒は先生や世の中に全面的に降伏しているわけじゃなかったです。
この以下の動画を見てると、生徒が礼儀正し過ぎて、何だかなあ、という気持ち。
我々の時は「うるせぇな、このセンコウは」と何処かで思いながら、斜にかまえていた部分があった気がしますけどね。
そんな「はい、はい」と必死には言いませんでした。
上記の動画では11分12分辺りに城戸先生が出て来るのですが、私はこれから何回も殴られましたね。城戸先生のあだ名は「エズ」です。博多弁で「怖い」を「エズい」と言うからです。当時の私はエズがこの世のものとは思えないキチガイか鬼か何かに見えましたね。
久しぶりにエズの声を聞いて思い出しました。
「黙れよコノ」
「なんなん?どげんあるとか?強かもんがおるとか」
「だから今日から始まっとうと言うたろうもん!お前、おう」
、、、ああ、たしかにこんな声と顔と目やった。
昔の人って老けて見えます。
下記の動画でも対戦相手の東福岡の選手も無理矢理にニコニコして何処か違和感が拭えません。
東福岡の放任主義にも筑紫のスパルタ式にも私は特に感動は特にしません。変にニコニコ顔も無理してるようで偽善っぽく見えないこともないですし、スパルタ式の礼儀正しさも何か違うような気がします。
やはり私は個人主義なのでしょうか。暑苦しいのが好きであり嫌いです。
西村先生は今は筑紫にはいなくて他の高校に行ったみたいですが、城戸先生も西村先生も体育の先生でしたね。
城戸が怖かったので西村は新米でしたし全然でした。
我々高校の同級生は何処か冷めているので、同窓会で集まったりはしてないようです。中学の同級生は集まったりしているみたいですが。
文化祭や体育祭、バンドなど同級生と一心同体になってやる、という様な意識はあるにはあったんですが、やはり何処か冷めてた感じはしますでしょうか。反抗心と言いますか、馴れ合いが嫌いと言いますか、真面目であっても真面目ではないみたいな。
大声で「はい!はい!」などとは皆で言いませんでしたね。
我々の時とは違って、動画でも感じますが、現実社会の中でも四角四面のルールの中に子供達や若者を閉じ込めてる様な気がします。そうなって来ると、「何処までやったら危ないか?」「何処までやったら人は怒るか?」などというものが自分の経験上の感覚で理解出来ないのではないでしょうか。
ただ当人達は基準がそれなので特に違和感は感じていないのかもしれませんが。
のっぺりとした、透明な、不自然な無理をした笑顔で、四角四面のルールのそれが善と思い込まれても、全くつまらない人や社会の出来上がりですね。善は善なのですが、人は100%の善では出来てませんし、危ない部分、動物的な部分があると分かっていて生きるのとはまた違うと思うのですよね。
それに関連してですが、日本人に対してひろゆき氏が正しい見解を示していると思います。ひろゆき氏は一部界隈からは何故か人気がないのですが、私はそのようには思いません。と言いますかチェックしているわけではないので、ひろゆき氏が普段どの様な思想でどの様な主張を柱としているのか?は、あまり知りません。
「平原氏の回答に、ひろゆき氏は「どちらかというと、割合の問題ではないか。例えば、9割の人が自己肯定感を感じないような仕事であれば、その仕事は機械化した方がいい。日本の社会はきれいごとを言って気持ち良くなっている人を評価する」と見解を述べた上で「アメリカのITは一握りの天才がメチャクチャ儲けている。その結果、産業が生まれて、世界中から外貨を稼いで大儲けしている」とコメント。」
日本の教育は何処か、赤字の部分の様な人を大量生産している気がするのですよね。
イデオロギーで言うと、行き過ぎた左翼と根性論が混ざった様な変な感じですね。
人に親切にするとかゴミを拾うとか、そういうのは敢えて強調して皆んなでニコニコ顔をするのではなくて、冷めた感じで当然の様に、スッと、スマートに出来るのがいいと思うのですが、近年は何処か暑苦しい、わざとらしい、偽善、そういう風に見えてしまうのです。半ば義務的な場合もありますし。
困ってる人を助けるのは経済学的にそうだから助けるとか、自分が困るからとか、慣習や伝統がそうだからではなくて、自分の内なるものから自然と湧いて来ないと意味がないと思うのですよね。
段々と締め付けられて何も出来なくなる社会になりそうですね。
そんな事を思った今日でした。
アン・ルイスはよくテレビで歌ってました。
時にカッコよく、時にエロく、ロックでバラードで、という人でした。元旦那さんの桑野正博は数年前に亡くなってしまいましたが。